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「ずっとウソだった」より 2012年11月5日
http://nekotoenpitu.blogspot.jp/2013/05/sugenoyaakirashikiji.html こちらをクリック 福島で行われている甲状腺検査の結果を、専門家はどう見るか。 甲状腺ガンについての知識など、 詳しい情報が得られます。 #
by no-nuc
| 2013-08-19 21:58
| 子どもの被爆
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by no-nuc
| 2013-08-19 21:43
| 未来に向けて
TOMORROWより 2013年6月8日
http://www.rise-tohoku.jp/tomorrow/2013/06/487/ (以下、転載) 福島県浪江町。 あの「3.11」に震度6強の地震に見舞われ、親しみある浜辺の集落が津波に襲われ、その翌日に原発事故による避難、ついには全町避難を余儀なくされたまち。多くの町民が「ふるさと なみえ」と愛するこのまちに、私は震災前後の約3年間、全精力を傾けて関わらせて頂きました。 震災以降、復興に携わる各地の方々、市民の方々との様々な対話の機会がありました。そういった機会を重ねていく中で、それらの場で私に投げかけられた多くの問いは、なみえの問題だけでなく、多くの地域の方々とも共有する意義があることかもしれない、そう感じつつあります。 仲間たちとの間で始まった小さな対話。それは静かに広がり、震災後2年目の3.11には大手新聞社の社説そのものと化していきました。地域の声を社説として伝え抜くという異例のスタイル。筆をとった方の「福島の地から見えつつあることをより多くの方々と共有していきたい」という強い願いを感じずにはいられませんでした。 対話を重ねる中で、私の目から見えたことがいくつかあります。多くの方々が豊かな視点や気づきを持たれていると思いますが、そこに私の気づきという小さな石を投ずることにより、皆さんの気づきや学びがさらに広がる。そんなきっかけになることを願い、このたび筆を執らせて頂きました。そしてこれは、仲間からの問いかけに対する私の応えでもあります。 1.私と浪江町 2010年4月、私は福島県からの出向という形で、妻と娘とともに私は浪江町に赴くことになりました。新しいまちづくりに取り組む浪江町の要請に福島県が応えた形での出向でした。その後様々な悩みや経験を経て、徐々に町内の多くの方々との信頼関係が生まれ、新しい流れがこの地に生まれる、そんな手応えを感じつつあった矢先に震災が発生しました。 震災以降は、私の仕事は震災対応へと一転していきます。政府の支援がない中での全町避難。体育館への一次避難と、県内各地に分散避難している約五千名の町民に約200カ所のホテルやペンションに移動して頂く二次避難。混乱を極める役場業務の運営支援。それら当初の緊急フェーズを経て、2011年の夏ごろからは、徐々に暮らしの再建とふるさとの再生というテーマを扱うようになっていきました。 今までは想像もつかなかった政府各層との直接折衝。現場での対応に追われる職員の方々を支えるために私が関わった仕事でもありました。さらに、分散避難する町民の方々の多くの声を踏まえて、ともにまちのこれからを考え、復興ビジョン・復興計画という形にしていく、そんな住民とのパイプの役割も担うことになりました。 今年3月を持って福島県庁へ戻るまでの約2年間。役場職員、市民協働の支援者、政府、復興支援関係者との調整役、計画策定のコーディネート役、浪江の若者たちの育成役、地域の一人の父親など。その時々、局面ごとに様々な役割を担ってきました。仮に私が私らしい伝え方をできるとすれば、そのような多面的な役割に関わったことが大きいのかもしれません。 2.災害は本当に終わったのでしょうか。 3.11の地震と津波という自然現象は収束し、原子力発電所も事故直後から比較すれば緊急事態は脱しつつあります。一人の生活者の目線に立てば、災害は終わり、今は復旧のタームから復興に至っていると思っても不思議はありません。事実、被災というものを目にしたり実感したりする機会は大幅に減っています。 そういった生活実感がある一方、日本では深刻な状況が続いています。それは「避難」というもう一つの災害によるものです。この先進国、21世紀の日本において、約16万人の方々が国内難民状態にあります。自宅に住みたかった。でも住むことができない。約9万人は選択の余地なく、強制避難を強いられています。過酷な原発事故、それに引き続く放射能に対する不安もあり、首都圏から西日本への「自主避難」はいまだに続いています。 特に原発被災地域では「震災関連死」が震災以降、最大の死者を生み出しています。浪江町では地震と津波で約190名の貴重な命が失われ、それをはるかに超える方々が震災関連死として、今も命を失い続けています。公的に認定されたものだけでも300人を超え、避難が続く限り、この数字は確実に積み上がっていくのです。 私たちの目からは、仮設住宅や借上げ住宅で住んでいる「今の姿」しか目にすることはありません。当たり前にそこに住んでいる、そんな錯覚も生まれつつあります。「目に見える部分」としてはそうなのかもしれません。 でも、私の目からはもう一つの風景がその背後に浮かんでいます。 祖父の代からの歴史ある広い住宅に住み、畑を耕し、なじみの友人と語らい、大切にしてきた地域の行事が共にある、ゆったりとした暮らし。田舎ではあるものの地域を作ってきたという誇りある暮らし。都会での生活に疲れた人が、第二のふるさととしてあこがれる暮らし。私たちの経済では換算できないプライスレスな暮らしがそこにはありました。それは残念ながら「見えない」「見えにくい」ものなのかもしれません。 この生活環境の変化(悪化)は、人の命をひどく蝕んでいきます。つい先日まで元気だったおじいちゃんが、ある日命を落としていく。人の生命力が徐々に弱まっている兆しが多く現れています。この問題は、原発の被災度が低い、宮城県や岩手県でも共通する部分があるのではないでしょうか。 私の目には、いまだに終わっていない震災、苦しみ続ける人々の存在が映っています。普段の生活では見えにくいこと。だからこそ、より多くの方々が共感できるように、事実を共有していくことが必要、そう感じる物事の一つでもあります。 3.町民の「声」を受け止めること、共有・共感するための努力の大切さ 浪江町での取組では、町民の声をつらくとも受け止めようとあがいたこと、ここに特徴があると言われます。中年男性が回答者数の大部分を占める世帯アンケートではなく、手間がかかっても高校生以上の全町民にアンケートをとり続けていること(毎回6割の回答率、約11,000人の回答)、アンケート対象外となる小中学生の生の声を、自由欄アンケートとして取り、直筆のまま全てをまとめたこと(回答率約7割、千名以上の回答)。全町避難であるのに町民検討委員会による検討を重ね続けたことなどがその例として挙げられます。 それらの取組みの原点となったのは、災害を通じて町民の方々から頂いた気づきの中にありました。表面上は「見えなかった」声の奥にある声。そこに接することで、その大切さに気づかされたことが大きく影響しています。その中でも印象に残った2つの出来事を紹介します。 町役場という最後の砦 一つは、私にすがりつく女性のまなざしでした。 役場自体も避難し、他の市の庁舎をお借りして避難対応に当たっている中、お子さんをお持ちの女性が、私に詰め寄り、私に不満の思いをぶつけてこられました。私も人です。自分ではどうしようもできない言葉は正直言って、何とも苦しい、切ない訴えでした。その女性からある言葉が私に向けられました。「本当はあなたが全てを解決してくれるなんては思っていない。だけど、国にも県にも東京電力に言っても、だれも聞いてくれない。その上で、私たちの役場の、あなたにさえ聞いてもらえなかったら、いったい私は誰に受け止めてもらえばいいのですか?」一介の役場職員である私にすがりつく彼女の切なさ、苦しさが迫ってきました。 逃げようと思えば逃げられる。でも、受け止めきれないとしても、逃げて良いものなのだろうか。住民を抱える最終ライン。私たちの普段の生活では役場はそれほど重い存在ではありません。ただし、極限の状況を迎えると、住民の方々にとって最後の砦となること。最後の砦であったこと。これも「見えなかった」ことでした。「自治」がなにゆえ重く、尊重されるべきなのか。最後の砦であるからこそ、最後の砦となりうるからこそ、大切だったこと。この女性の痛切な叫びによって、はじめて見ることが出来たのかもしれません。 「声」の奥にある想いと向き合う もう一つの出来事は、避難から2週間を迎え体育館避難から、旅館やホテルへの二次避難を準備していたときの出来事でした。 既に避難から約半月が経過し、長引く体育館での避難生活から住民の方々の疲れもピークに達しつつあり、旅館やホテルへの二次避難を模索していた時期の出来事でした。この時、実は私自身も、極限の状況下での仕事と睡眠不足により、すり減り、限界を迎えようとしていた時期でもありました。 そのような中、約20カ所の避難所の中でも、まとまりがあると言われていた約200名を収容するある避難所の責任者が役場の本部に駆け込んできました。「二次避難の案内に対して納得できない」「全員拒否する」「役場の責任者を読んでこい」そんな大きなトラブルが発生していました。 実務に追われる中でしたが、私が町側の責任者としてただ一人赴くことになりました。この役を担う者がいない以上、住民の方々から吊し上げになってもやむを得ない、そう覚悟を決めて、避難所に向かい、全避難者が集う大広間に足を踏み入れました。 数百の目が、私に向けられ、そのような場にはじめて出た私は、何をお答えすべきか正直悩んでいました。まずは何を皆さんが求めているのか、それを知りたい、その思いから向かい合う先にいる一人一人に目を向けていくと、見えてきたものがありました。それは、この理解できない状況下で困惑した瞳、誰かしらに答えを求めるすがりつくような瞳でした。まずは想いを誰かが受け止めること、そここそがみんなが求めていることなのではないか。ふとそう感じました。そこから説明会ではなく、私と皆さんとの対話が始まったように思います。 皆さんをこのような状態においてしまっていることの申し訳なさ、ふがいなさ。被災者を支えていたはずの人が一転して被災者としてふるさとを追われたこと。自然災害といえばまだしも、「絶対安全」という施設の事故で追われることの理不尽さ。その上で、今回の案内は、無理に今のところを追い出す考えではないこと。意向調査も出したくなければ、出さなくて良いこと。ただ、私自身としては避難が長引くことが分かりつつある中、集団生活を続けることの疲れは、切なく感じていること。一人一人が自分の部屋で休める状況にしてあげたいこと。 一人一人の目を見つめながら、「私」として言葉をお伝えする時間が続きました。私の話が終わった後からは、切実だけど穏やかな問いが重ねられていきました。出てきたのは、不満ではなく、次のステップへの「不安」でした。強く反対意見を述べていた方も、素直な質問を私に問いかけてくるだけでした。 質疑も終わることになり、司会をしてくださった避難所の自治会代表の方が終了を告げたとき、私の目に信じられない光景が現れました。自分の耳に届いたのは、町民の方々の一人一人の拍手の音でした。満場の拍手。想像すらしない状況が目の前に生まれていました。 この場に臨むまでは、疲れによる徒労感。やむを得ない役割。なんとかするしかない。そんな思いで足を運びましたが、結果的に一番励まされたのは、私でした。厳しい状況下にあるからこそ、誠意を返す皆さんの振る舞いに、私は深く、深く頭を垂れるしかありませんでした。その後に、避難所の方々に頂いた、炊き出しの温かいシチューの味は今でも忘れることは出来ません。 翌日、ほぼ全員の人が賛成の意向調査を提出してくれたとの報告が届きました。結果として、多くの避難所があった中でも、この避難所の方々は早い時期に次のステージに移ることになりました。 この二つの経験は、のちに私が復興ビジョンや復興計画に携わる際に、最も重要視した「住民の声や想いをしっかり受け止めることの重さ、そしてその必要性と価値」の原体験となりました。 二つの体験から見えるもの 多くの議論の場において、最初の頃に現れる「住民」の声。私たちは効率性を重んじる中で、それだけで、もう分かったものとしたくなることがあります。ただ、それが本当の声なのか。最初の声や想いのそこにある、さらなる「声」「想い」に達しているのか。まだプロセスの途上ではないのか。そういった問いを私たち自身、どこまで重ねているでしょうか。 プロセスを重ねる中で、不安や戸惑いのそこに潜んでいた、住民なりの考えや判断が立ち上がっていくこと。そのプロセスに立ち会うことで、行政の問題のとらえ方も成長していく。そのプロセスを経た上でたどり着く結論を信頼すること。もしかすると結果的にはそのプロセスを経ずとも同じ結論になるのかもしれません。しかし、同じ目線で共有し、ともに悩み考えていく中で至る結論は、形としては同じであっても、全く違う意味を持つのではないか、私はそう思います。 議論すれば結論が出せる、そういった素朴なアプローチではなかなか乗り越えられないということがあります。まちづくりや土木技術といった個別の専門分野以外にも、共有・共感していくための、姿勢のあり方、場の持ち方、進め方の工夫、そこにも実は「技術や経験」が必要なのかもしれません。 これは「住民と行政」だけに留まらず、「住民と住民」「団体と団体」「住民と団体」「団体と行政」いずれにおいても、通ずるところがあります。人と人とがわかり合うためには、橋渡しとなる技術、それが担える人材に参画が必要不可欠です。 出会いを大切にするための努力と工夫が今、求められているのではないでしょうか。 →第2回へ(全4回の連載寄稿となります) #
by no-nuc
| 2013-08-19 21:39
| 福島原発事故
TOMORROWより 2013年6月15日
http://www.rise-tohoku.jp/tomorrow/2013/06/496/ (以下、転載) 4.「復興」とは何なのか 震災以降、他県ではどんどん復興計画の検討が進み、着々と「復興」について方向性や取り組むべき事項が整理されていきましたが、私たちの町では「復興」を議論することすら難しい状況でした。多くのマスコミから震災直後から復興に関するアンケートが殺到しましたが、私たちには何とも言えない想いがありました。 4月、そして5月になると、多くの被災地で復興検討委員会的なものが動き始め、復興に向けた動きが日を追う事に加速していきましたが、私たちの町では全町民が仮設住宅にも移れない、すべての暮らしが失われた状態にありました。 そんな浪江町でも、「私たちの今後はどうなっていくのか?」そういった問いに答えていくための復興ビジョンの検討が、避難から半年を待たずに始まりました。多くの期待を背負いながら、町民の方々を中心とする復興検討委員会がようやくスタートを切りましたが、すぐに大きな課題に直面することになりました。「復興の検討」そのこと自体が大きなハードルとなっていたのです。「復興」という言葉には、町並みが元通りになり、暮らしが元に戻る、場合によってはさらに発展していく、そんな印象が根強くあります。ただ、私たちの町では、そもそも「復興するはずの地域」にはだれも住んでいないという状況がありました。「復興よりも先に考えるべきことがあるのではないか」そういった議論が根強くあり、そして切実なものでした。 被災各地で進みつつある「復興」。当たり前の言葉なのでしょうが、全町避難が続く私たちの地域では、「復興」を論ずるほど、町民の方々にとっては絵空事であり、ある意味、つらいことでもあったのです。「復興」という言葉に潜む「人の暮らしの欠如」がそこにはあったのです。 どこに住んでも浪江町民 私たちにとっての等身大の「復興」ってどういうことなのだろうか。子どもたちの父親であり母親である若手職員との度重なる勉強会、町民の方々が多く集う検討委員会において、悩みに悩みつつ、議論が白熱しぶつかり合う中でたどり着いた先が、次の考えでした。 私たちにとって、まず大切にすべきなのは、「一人ひとりの暮らしの再生」なのではないかということ。今、町民全員が町を離れている。もしかしたら今後、一人ひとりがそれぞれの選択をし、近く、さらに遠くに離れるかもしれない不安を持っている。「町に残る人だけが町民」ではなく、震災前に暮らしていた私たち全員が町民と考えよう。もともと多様なバリエーションで暮らしていた一人ひとりの暮らしが、少しでも平和になっていくことを願いたい。町に戻ることが幸せと感じる方のためには、安心して帰って来れる環境を作ろう。一人ひとりがどちらも選んでも良い。そんな想いから復興ビジョンのサブタイトルとして「~どこに住んでも浪江町民~」の言葉が引き出されました。 「どこに住んでも浪江町民」は人がいてこその自治体にとって、非情な重さを持っています。よそに住むことを認めていくことは、ある意味自治体を否定するものでした。ただ、過酷な現実、そして一人ひとりの選択が一様ではないことの事実を踏まえていく中では、何より町民が第一、その考え方にならざるを得なかったのです。これは町民による委員会だからこそ導くことが許された基本方針だったのではないでしょうか。 その時の私たちには、そういう町民の選択のあり方自体を認めていくことが、町民の願いであり、そして町民の方々が互いに寄せ合う心あるメッセージなのではないかと思えました。それらの議論を理解した上で、原案を変えることなく採択した浪江町の馬場有町長、そして議会全員のメンバーにはその包容力の大きさに頭が下がるばかりです。これも住民に近い「自治体」だからこそ寄り添える力なのかもしれません。 対立を超えた「ふるさとの再生」に至る道程 もう一つ、厳しい議論だったのが「町」の復興でした。「そもそも帰れない」「いや帰れる」という「帰る、帰らない」という議論による分断。そして、帰れないならいわゆる「復興」は無用、お金をもらって町は捨てるべきとの論も根強くありました。マスコミでも、この議論がわかりやすかったせいか、注目を引きつけ、「町が割れている」、「帰りたい町役場」vs「帰りたくない町民」との構図で取り上げられたことも多くありました。それぞれの町民が傷つけ合う局面が生まれていました。 これは「見えない」「分からない」放射線への不安と、町全体の生業と暮らしが失われた中で直面する再生の難しさがあったとともに、それ以上に根深い問題がありました。それは「選択が許されない状態」。多くの対立の根はそこに潜んでいました。 避難指示の制度は、指示が続く間は帰れないが支援はする。一方、指示が解除されれば、帰れるが支援は打ち切るという意味あいがありました。「帰る」ことにより、帰りたくない人も帰らざるを得ない状況が生まれる。「帰らない」ことにより、帰りたい人も帰れなくなる。そうなると、相手の意見が通ることは、自分の存在を脅かすことになります。 気がつくと互いに支え合うべき仲間の間に対立が生まれ始めていきました。さらに、町はどちらを判断するのか。いくつかのマスコミはそこに注目しドラマを期待しました。ところが、現実は期待する内容よりも、遙かに深いものがありました。対立の先にあるもの、完全ではありませんが、多くの悩みを交わし合う中で、ようやくそこに迫ることになっていったのです。そこにたどり着くまでには、二つの出来事が大きな貢献を果たしました。 1万人を超える町民アンケート 一つは町民アンケートでした。多くの声を丁寧に聞きたい、そう考え、私たちのチームでは全「世帯」アンケートをやめることを決定しました。その上で敢えて困難を承知で、高校生以上の全「町民」アンケートの実施に踏み切りました。外部委託もできず、震災対応に追われる職員が直営で集計作業に当たるこという過度な負担を覚悟した上でのチャレンジでした。 その結果、18,000人中、11,000人という驚異的な回答率が生まれました。一つ一つのアンケート用紙を手に取ることで見えてきたこともありました。「帰る」「帰らない」の集計が全てと考えますが、実際はそうではありませんでした。しわくちゃになった回答用紙に残された、それぞれを何回も行ったり来たりした気配、欄外への「決められないのに」というメモ。帰ると答えつつ文末の自由意見の相反する悩み、その逆も当然ありました。パーセントの陰で見えなかったものが、はっきりと見えてきたのです。そこからは選択できる状態にない中で、選択を迫られる町民の複雑な心中がありました。 「ふるさとがどうなっても良い」とどの程度の方が思っているのか、そこもアンケートを工夫する中で、たどり着くことが出来ました。「帰らない」と答えた方、いわば「町を捨てた」と見なされかねない回答です。その上でその方たちに「町の復旧・復興は必要か」と尋ねました。そこから浮かびあがったのは、帰られないと思っている方の約8割弱は、それでもふるさとは良くなって欲しいという願いを持っていることでした。 他県に住まいを決めた町民の方が、交流の場で言葉を詰まらせていた風景が重なります。「自分はやむを得ずふるさとを捨てた。自分はふるさとに直接携わることはできなくなった。でも、自分のできることは精一杯していきたい」。たとえ自分の町に住まなくなったとしても、ふるさとはふるさととして、しっかりと存在し続けて欲しい。切なる訴えがそこにはありました。 止められない涙。子供たちが教えてくれたもの もう1つ、強いインパクトを与えたのが、子どもアンケートでした。これも浪江町の若手スタッフの想いからスタートしたものでした。「果たして今の大人だけに聞けば済むのだろうか」「将来ふるさとを担う小中学生に全く意見を聞かなくて果たして良いのか」そんな疑問から、業務に追われる中にもかかわらず、実施に踏み切りました。そして、子どもたちの素直な思いを聞きたいとの趣旨から、集計やまとめが膨大となる、自由記載欄を中心としたアンケートに彼らは踏み込みました。 全員分のアンケートをまとめたものを、はじめて手にしたのはホテルのロビーでしたが、一つ一つの回答に目を通す中で、ほほに流れる涙を止めることができませんでした。一人一人の手書きの文字から見える、子どもたちの想いは、大人達の想像を超えています。「大人になったらどんな町になってほしいですか?」との問いに対して、都市部に避難している子どもたちなので、当然、東京のような都市になって欲しいとの声が大多数と考えていたのですが、真逆の結果が浮かびました。「元の町のような『賑やかな』町に戻って欲しい」「前のように『楽しい町』になって欲しい」「僕が大人になったら必ず町を取り戻します」。ページをめくってもめくっても、そんなふるさとに対する深くも熱い想いが、書き綴られていました。 なんと子どもたちは曇りのない眼で物事を見ているのだろう。今の大人、そしてかつての大人達が積み上げてきたふるさとが、子どもたちの目を通して見ていくとどれほど価値があるものだったのだろうか。私たち大人が見えない、積み重ねた町が持つ価値。このアンケートにはそういったヒントが数多く潜んでいました。私の原点の一つとなりました。 さらに、このアンケートは私個人だけでなく、町民の検討委員会、議会の議論にも強い影響を与えました。苦しくて放り出したくなる誘惑の中、大人達に向けられた子どもたちのまっすぐな想い。このアンケートに向き合った私たち大人として、何をすれば応えられるのだろう。そんなインパクトが生まれていました。 苦しみを経て見えてきた、ふるさとの価値 この子どもアンケートは、空気を変えただけでなく、町づくりの重要な理念「受け継いだ責任、引き継ぐ責任」という言葉を生み出すことになりました。子どもたちの想いが町の基本方針にまでなること。このことも従来の常識からすれば「ありえない」話でした。 ふるさととは、離れてみて、そして失ってみてはじめて真の価値を知るもの。 私たちの地域は、あまりにも過酷な状況に追い込まれました。ただ、そこで見えてきたのは、貨幣価値では換算できない、まさにプライスレスな価値でした。人と人とがつながりあうことの幸せ、先祖から引き継いだ文化や行事を楽しむことができ、引き継げることの幸せ。「何もない」と思われていた町でしたが、本当は多くの幸せがあったのです。 このことは、私たちのふるさとだけでなく、実は、どの町にも同じ事が言えるのだと感じています。気づいていないだけで、どの町にもかけがえのない価値があること。明確に意識しないけれど、実はその中だからこそ幸せを感じることが出来ていること。効率性や経済性では見えなかった大切な価値が見えてきたのは、原発災害によるかすかな不幸中の幸いだったのかもしれません。 無自覚に「復興」という言葉を使っていくことで、多くの対立や摩擦が生まれてもいます。私たちが「復興」と言うとき、し何をもって「復興」と考えているのか。生活者としての私たちにとって、真に実感できる「復興」とはどのようなイメージなのか。浪江町では、そもそも復興という言葉を議論しなければいけない状況だったからこそ、直面した課題でしたが、逆に丁寧に考えていくことができたのかもしれません。 私自身は、この「復興の意味するもの」、「復興に込める想い」ということを話し合い、共有していくことこそが、復興の第一歩なのではないか、今になると、そう思えてきます。今の時代だからこそ、「復興」の意味を改めて問い直すことが必要なのかもしれません。 5.次に続く人材育成の大切さについて 徹底的にゆだねた最後の1年間 震災後の1年後まで。それが浪江町での本来の任期でした。ですが、町、そして町民の方々が置かれた状況の切実さを感じる中では、1年延長の申請を出すこと、それがせめても私に出来ることでした。そして、町役場からの要請など、おそらく様々な議論があったのでしょうが、派遣元である福島県から認めて頂く英断が下りました。 ただし、それであっても自分の現地寿命は1年しかないことは事実。事態が進展していく中、町民の負託にこたえるためには、様々な面で仕事の量を増やし、局所的ではなく全体的な質も高めることが不可欠でした。私だけでは貢献できる部分はごく一部になりつつあること、一人の人間の働きでは先が見えないことも実感していました。自分が動く局面から、後に続くメンバーを育てる時期が来ていたのです。 後に続くメンバーたちが、自らの力で切り開いていけるようにしてくためには、自分の存在感を消すことも必要でした。「徹底的にゆだねる。メンバーに苦しみ、悩んでもらう。彼らと外部の方々をつなぐ基礎を作っていく」最後の年における私のテーマは、振り返ればこうしたものだった気がします。 多くの苦労を重ねる中、かつては無理と思われても不思議ではなかった仕事を若手のスタッフが一つ一つ成し遂げていきました。膨大かつレベルの高い、町民の方々との検討委員会の運営。国や県の方針に対する地域としての見解の整理と見解の主張。津波被災地のまちづくりのデザイン設計。失われた産業の再生。気がつくと自分の仕事として、若手スタッフが担う姿が当たり前になっていきました。 任せることで短期的には手間もかかるし、一時的には質も下がることもある。それでも一人一人のレベルが上がっていくことで、確実に「できること」が増えていくのが見えるようになっていきました。スタッフ自体も年度後半から「玉川がいなくなったら…」「玉川がいなくなったとしても…」という言葉をよく口にするようになりました。自分たちだけで歩まなければならないという危機感が20代から40歳前後の志あるメンバーの背中を押すことにもなっていました。 誰が復興の主役なのか 名前を出すことは差し控えますが、私の目には顔の見える一人一人が浮かんでいます。そのようなプロセスを経た中、若手職員達が最後の最後に、私を囲んでの勉強会と送別会を多忙な中で開催してくれましたが、その中にはこの数年の蓄積が凝縮された風景がありました。 「自分たちは玉川さんの1割しか引き継げないかもしれない。それでも10人、20人、30人が引き継ぐことができれば、それ以上のことが成し遂げられる、そう思って取り組んでいく」。血は引き継げないけれど、志が確実に次の世代に引き継がれていることを強く実感する機会となりました。一年前には浪江を離れることは想像できませんでしたが、日々ともに仕事をしていく中で仲間たちの成長を実感し、そしてこのような場において志が着実に引き継がれていることを感じて、私自身としても離れるべき時期にたどり着けたことを実感しました。 後になって分かったのですが、「保守的」と思える役場でも、心ある上司達は後輩達がチャレンジしていく姿を願い、期待もしていました。異分子の私が多くの協力を得て仕事を進められたのは、「浪江の若者達を育ててくれているから」。職場を離れて、役場のベテラン職員の方から気づかされたことでもありました。後輩達を育てていきたいと思っていたのは、実は私だけではなく、多くの先輩達も同様だったのです。それに「気づけない」だけだったのかもしれません。 これらの出来事を通じた気づきは、いずれの被災地にあっても、「誰が今後の主役か」という点を踏まえることが必要という点です。「代わりになって物事を処理していくこと」それも短期的かつ部分的には必要でしょう。ただし、中長期的にはどうか。幅が広い活動でそれがはたして通ずるだろうかと考えることも必要ではないでしょうか。 各地で支援に当たるNPOの仲間たちも、今、この課題に直面しています。自分たちの力が強く発揮できれば出来るほど存在感は高まる。その一方で、単純に支援し続けることで、現地の方々の「生きる力」を削いでしまう危険もあること。10年、20年と支え続けることは難しいことも事実です。それぞれの人、それぞれの団体が自らに内包する力を、現実に直面しながらも育んでいくこと。そのためには、あえて手を出さない意志の強さや努力が必要なこともあります。 では、後を誰かに引き継ぐ私たちとしては、どうしていくべきなのでしょうか。一人ひとりへの「エンパワーメント」のスタンスが大切なのではないか。私はそう感じています。 スーパーマン的な人が「解決していく」、「解決してくれる」を重ねていくと、人は無力になります。自分は結局、何もしないから、出来ないからです。その背後には、解決する=全てを解決するという過度な期待があるのかもしれません。百点なんてありえないのにもかかわらず、私たちがつい求めてしまうものなのでしょう。 いずれの課題も完全に解決なんて出来るものではありません。たとえ、全てを一度に解決できないとしても、一人ひとりが担える部分を一つ一つ担っていくことによって、解決できる部分は着実に増えていく。解決者の数が地域内に増えていくことで、回り道かもしれませんが、結果として課題は解決していく、のかもしれません。 「エンパワーメント」には、ある意味、回り道が必要かもしれません。ここでも「効率性」の誘惑を断ち切り、真に何が求められているのかを見極めていく力と覚悟が求められているのではないでしょうか。 第1回へ戻る<< >>第3回を読む #
by no-nuc
| 2013-08-19 21:37
| 福島原発事故
TOMORROWより 2013年6月22日
http://www.rise-tohoku.jp/tomorrow/2013/06/504/ (以下 転載) 6.共有(シェア)~身近な人たちとそして多くの方々と~ 「自分自身ができることは小さい。だから社会が変わらなければ何も変わらない」そういう考える誘惑は自分自身にもありますが、それはある意味自分自身は無力、そういうメッセージにもなっています。自分も無力であるし、他の個人も無力。そうすると社会は誰か絶対的な力を持つ人しか変えられない。でも、実は絶対的な力を持つ人などいないということも事実。そのような「社会を変えられないループ」の中で、「個人」が社会を作っていくという経験がありました。 福島第一原子力発電所で私が見たもの 震災後1年を迎えようとした時期に、福島第一原発の現地調査の話があり、私も参加することにしました。現地の現実、それが町民の方々の不安のベースにあり、現実を見ない中で想像上の話をしても、果たして説得力のある対話ができるのだろうか。自分自身、無責任なのではないかと感じてもいた時期でした。 そして、2012年4月11日に福島第一原子力発電所に立ち入ることになりました。そこでは多くの学びや気づきがありました。 津波被災と水素爆発という甚大な被害の中にあっても、がれきの処理や対応策の実施など、進んでいる部分があったこと。でも期待したいレベルまでは進んでいない。進んでいるけど、進んでもいない、でも進んでいること。4号基の燃料プールに存在する、千本を超える大量の燃料棒の圧倒的な存在。今回の爆発では炉心が爆発したチェルノブイリと異なり、炉心の爆発に至らない水素爆発で済んでいますが、遙かに大量の核燃料が反応せずに残っていました。大量の燃料棒が損傷した場合、我が国の汚染はより深刻な濃度で首都圏以遠に至りかねなかったことを知りました。 また、「最悪」と思っていた事故に、さらに最悪がありえたこと。事故対応のコントロールタワーとなり、吉田所長たちの拠点となった免震重要棟は、サイト内で唯一人が待機できる場所であり、この拠点なしでは収束作業は実現不可能でした。燃料プールに存在する膨大な燃料棒が反応せずに済んだのは、この拠点をベースにした活動が積み重ねられたことも大きな原因ではないかと考えられます。その拠点が完成したのは事故のわずか半年前です。間に合わなかったらどのような事態が生じていたか。逆に、無事に間に合ったことの奇跡を感じずにはいられませんでした。 今までは遠く被災地から離れていた、東京の仲間たちの顔が浮かんできました。私たちの支援に当たってくれた彼ら。事故がさらなる最悪に向かっていたならば、私たちの大切な仲間である彼らも、私たちと同じ状況に至る危険性があったこと。そうなったとすれば、より現地に近い私たちはさらなる過酷な運命を余儀なくされたことも、想像できました。 さらに、実際に現地に入った中で、被災者である浪江町の友人が経営する会社の重機が私たちの車とすれ違いました。私たち浪江の仲間の会社が実際に収束作業に当たっていた。知らない他者ではなく、まさに身近な友人が事故収束にあたるメンバーであることを現地で実感したことは、別の意味で大きな衝撃となりました。 この日の体験や気づきによって、私自身がこの問題に関する当事者性を再考する機会となりました。 個人から社会へ。1万7千のシェアが生んだ大きな力 これらの気づきを、支援活動をしている友人達に伝えたのがその夜に書いたFacebookの記事でした。「私」そして「私たち」を主語として考えていけないか。私たち自身が「当事者」としてこの問題に関わっていくことが必要ではないか、そのような投げかけでした。 約100人の友人に向けた書いた記事が、共有したいとのリクエストを受け、公開範囲を広げ、そこから多くの方々との共有が始まりました。私自身の手を離れ、シェアは広がり、現在17,000ものシェアに達しています。この記事はFacebookのシェアとしては日本だけでなく世界的にも当時としては最大規模のシェア数だったことを、後になって知りました。そして、個人間の共有が大手マスコミの論説委員の目にもとまり、2013年3月11日の朝日新聞の社説「原発、福島、日本 もう一度、共有しよう」にまで至ることになりました。Facebookの私のコメントや取材における私の言葉を社説の中核に取り上げられる異例の取組みのこの記事は、一人の人間の気づきと問いを重ねる取材現場が共鳴して、形になったものでした。 そしてこの流れを作ったのは「コメントを付したシェア」という個人の活動を重ねた1万7千人の方々でした。個人の発信であっても、限定はされつつも、広い広がりを生み出すことができる、それは「誰かが」実現したのではなく、手に取った一人一人の方々でした。一見「無力」であるはずの個人が、他者との共有を重ねることにより、大きな力を生み出していくこと、その一つの現れでもありました。 最初から大きなものがあるわけではなく、結局は、一人ひとりから始まるしかない。ただし、逆に一人ひとりからは、確実に始めることができる、そして広がるものは、広がっていく。この出来事からそのようなことを読み取ることができるのではないでしょうか。 7.立場を超えたからこそ生まれる協力関係 この災害を通じて私の原動力となったのは、立場が違う中でともに取り組む「仲間」たちでした。住民、地域団体、他の市町村、県、国、企業、支援団体。ややもすると対立関係に陥ることがありますが、ともに課題を直視する中でともに取り組む「仲間」となっていくことで、多くの課題が解決できることを実感しました。 強い印象が残る出来事は、屋内待避区域からの避難でした。孤立した浪江町津島地区から約8000人の町民の脱出を模索していたとき、力になってくれたのは、タウンページや知人の伝手でつながった地域のバス会社の社長さん達でした。大手マスコミすら立ち入らなかったエリアに、人として彼らは手をさしのべ、多くの町民の救出に力を尽くしました。究極の状態には公権力や市場原理はあまりにも無力です。「人」として「助けたい」と願う切なる想い。それを受け止めた「人」として「自分が動かねば誰が動くのか」との責任感。その二つが共鳴した故に成し遂げられたことでした。 住民と行政も対立しがちですが、行政も動きがとれない場合も現実にはあります。そんな状況を見て志ある町民の方々が避難所運営や自治会の結成など、自治の力で住民を支え始めました。行政に出来ない柔らかな関係性の構築、細やかな対応は、自治の強みでした。 また、「政府」や「国」であっても、現実を把握し、なんとか克服したいとの想いを持っているメンバーも多くいました。真剣に意見を交わし合う中で信頼が生まれ、業務を超えた「仕事」、人としての「役割」の意識が生まれていくと、進まなかったものが進んでいきました。 「マスコミ」の中でも、限られた時間の中で、しっかりと伝えてくれる取材者も確実に存在しました。被災者の側に立って物事を見、行政の不足点も含めた地域の生の課題を、他地域の方々と共有できるようにしていく、そんな取材者の存在は大きな励みになりました。現地にいる我々と、真剣に伝えていきたい彼ら。私たちの目線とは別の目線で咀嚼し私たちでは共有できない情報や知見を、社会と共有する役割を担って頂けたことは感謝すべき出来事でした。 従来、行政が活動支援を行っていたNPOなどの民間団体も、行政ができない分野で多くの力を発揮しています。住民の方々の自治組織の運営支援や、避難自治体である双葉郡の職員の育成・支援プログラムを実施し、町村同士の垣根を低めていくことなど、従来では想像もしなかったレベルでの民間による行政支援も始まっています。 企業についても、その力なくして避難対応、復興実現は困難な状況になりつつあります。社会貢献として資金援助をするあり方から、社会の課題解決方策を提供することによりビジネスを成り立たせてきた組織が本格的に関わるあり方へと、フェーズも変化しつつあります。いずれの企業も復興支援の責任者の方と対話を重ねる中で、「我々の企業としてなし得ることは何か」を真剣に考えて頂き、実現にこぎ着けています。 民間が行政を支える時代へ 振り返れば、震災前から福島には多くの課題がありましたが、その解決に当たるアクターは不足していました。震災を通じて、志と能力のあるすばらしいメンバーが、人々の暮らしの再生、そしてこの地域の再生に関わってくれる状況が生まれています。 彼らの活動から見えることは、行政が民間を支援するという今までのあり方から、民間が行政を公共のために支援するというタームに移行しつつある姿です。 彼らは単に「民間だから」行政より良いのではなく、それぞれが自ら強みとする「専門性」を官民問わず有しているからこそ、専門性が弱い組織や活動を支援していくことができるのでしょう。支援先は民間又は行政に絞る必要はなく、必要とするところが行政であれば、純粋に行政を支援していくということなのかもしれません。 こういったメンバーの参画によって、日本が抱えるこれからの課題を、この地において一歩先んじて取り組むことが出来ると私は予感しています。また、こういったメンバーと従来からの行政分野にいるメンバーが、相互にプロジェクトを作り上げることで、自分にはない視点や能力を理解し合い、孤立して取り組んでいた頃よりも、はるかに課題解決力のある方策を打つことができるようになるのではないでしょうか。 被災地の問題解決が、その後の社会の問題解決の先鞭となる役割でもあることが、改めて見えつつあります。 第2回へ戻る<< >>第4回を読む #
by no-nuc
| 2013-08-19 21:37
| 福島原発事故
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